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日本七宝の歴史

日本の七宝歴史

日本の七宝歴史

七宝は、金、銀、銅などの基板の上に、ガラス質の釉薬をのせて、800度前後で焼成した工芸品です。その優美な色彩と光沢から仏教典で七種の宝石(金・銀・瑠璃・玻璃・珊瑚・瑪瑙・しゃこ)に例えられて日本では七宝と称され、世界中の人達から愛好されています。
七宝の歴史は、古代エジプト(ツタンカーメンの黄金の面の頭部に青色のガラス)までさかのぼることができますが、中世にはキリスト教の聖具に使用され、多くの遺品を見られます。中国では、景泰年間に七宝が非常に発達し、以後「景泰藍」が七宝を総称するようになりました。

日本では、奈良県の牽牛子(けんごし)塚古墳から出土した亀甲型七宝金具がもっとも古いとされています。また、慶長年間に京都の平田彦四郎道仁(1591~1646)が、朝鮮の技術者より七宝の技法を伝習して、江戸時代の七宝師となり、日本人による七宝製作が始まりました。この頃の七宝は泥七宝といわれ今のような艶のある七宝とは違っていました。
江戸時代に幕府の七宝師となり桂離宮中書院の襖の引き手など建築金具に作品を残しています。その後、相伝により江戸時代初期を中心に日光東照宮、名古屋城の釘隠し、引手などの一部に七宝が施され製作されました。代表作は重要文化財指定の花雲文七宝鐔でしょう。しかし特殊な用途と閉鎖的(一子相伝)により技術が広まることはありませんでした。
日本の七宝が世界から認められるようになったのは、幕末天保の頃、尾張の国の梶常吉がオランダ七宝を研究して、七宝工芸興隆の端緒を開いてからのことです。七宝は、明治の代表的な輸出品となり、明治七宝は欧米の愛好家に所蔵されています。上の画像は正倉院の黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんぱい)です。これは銀板を部分に分け、七宝を焼き付け組み合わせた物で全体を一度で焼成したわけではありませんが、当時の技術としては素晴らしい作品です。それ故中国で作られたのではないかという説も出ています。

牽牛子(けんごし)塚古墳
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAKOFUN/kegosiK.html

明治・現代の七宝

明治・現代の七宝
明治・現代の七宝

明治七宝は七宝の全盛期であり、商品を大量に生産し始めた時期であります。名古屋の安藤七宝店や京都の稲葉七宝店(現在はありません)が、名古屋などに下職をかかえ、生産に力を入れていました。当時の七宝は分業製で図案の決定・生地作り・下絵付け・銀植線・釉薬色付け焼成・覆輪付け・完成などを各個人の家で行われて、現在のように1店舗ですべてを行うことはありませんでした。そして、でき上がった製品を上記のお店が買い上げていました。七宝の製作は農閑期に行われていた時期もありました。

その中で、幕末に活躍した七宝氏は梶常吉であり、明治初期に七宝は日本の輸出商品の代表品となりました。梶常吉は一子相伝をせずに、色々な人々に七宝を伝授し各方面に広げました。オランダ渡りの七宝皿を研究して製法を発見、現在の尾張七宝(有線七宝)の基礎を作りました。梶常吉の七宝技法はこうして、林庄五郎に伝えられ、それからさらに塚本貝助に伝えられました。しかし、釉薬については秘伝とされ、伝えられませんでした。
そこで塚本貝助は、師である庄五郎が買い求める薬品を探して市中を訪ね歩いて、遂にそれが、青色ガラスであることを突き止めたといわれています。
その後、貝助は東京のアーレンス商会の七宝工場の工場長として招かれ、そこでドイツ人科学者ワグネルとともに七宝釉薬の改良に努力したのです。七宝が今日のように光沢のある透明釉薬を使った、華やかなものとなったのは、これから以後です。精緻で華麗な七宝を生み出す名工が輩出し、万博などを通じて世界を驚かせ絶賛を浴びる日本の七宝が誕生することになります。

明治期の作家としては、濤川惣助と並川靖之が上げられます。濤川惣助(1847~1910)は明治20年(1887)に実用化に成功した無線七宝の技法は金属線なしで図柄を表す画期的なものであり、日本画の図様を七宝に活かせた第一人者であります。明治14年に開かれた第二回勧業博覧会に作品を出品し、見事、名誉金牌を受けたのです。その作品は、従来の技術を上回る無線七宝と、さらに濃淡の発色を可能にした美しい焼物であったそうです。惣助はその2年後、アムステルダムで開かれた万国博覧会、さらに明治18年のロンドン万国博覧会に出品してそれぞれ金牌を受けたのです。そして同22年のパリ万国博覧会では名誉大賞を受賞することになり、濤川惣助の名声は世界中に広まることになったのです。国内においても翌23年の第三回勧業博で遂に名誉褒賞を手にした惣助は、明治28年に緑綬褒章を受け、翌29年には七宝焼を通し国の内外に日本工芸品の優秀性を示したとして帝室技芸員に任命されたのです。明治43年2月9日、濤川惣助は64歳で没しましたが、生涯の仕事の集大成として迎賓館に多くの作品を残しました。それらの作品は、大食堂に30面、小食堂に2面、計32面の七宝壁飾額が飾られていますが、それらの評価は「有無線七宝焼の技術が、遺憾なく発揮されている」といわれています。
また、並川靖之(1845~1927)は名古屋の塚本貝助の弟子、桃井英介によって伝えられた七宝技法を習得し、細密な有線七宝技法による華やかな図柄を得意とし、黒地釉薬に写実的に花・草木・小鳥の姿を鮮やかに浮かび上がらせる効果を得意としていました。万国博覧会などで数々の賞を受賞し、明治29年にはこれらの功績により帝室技術員に任ぜられました。

上記の写真は左が並川靖之作(藤と蝶文花瓶)右が濤川惣助作(月に薊文盆)です。2点とも、昇仙峡ロープウェイ七宝美術館所蔵です。

東京七宝・勲章七宝

大勲位菊花章頸飾とは

大勲位菊花章頸飾とは

 左図が大勲位菊花章頸飾です。この勲章は唯一全ての構成部品が22Kの金製の勲章です。糸鋸で切り回し、勲章の中でも一番の製品です。副章は純銀製で作られております。勲章の色付けはすべて七宝焼きで作られており、その特長は何年経っても色あせる事はありません。
 現在は財務省造幣局で作られています。この勲章が東京七宝の元祖ということになります。現在我々組合の七宝製品はこれをベースとして他方面に作品を供給しております。女性装身具、紳士装身具、カーマーク、ゴルフマーカー、校章、社章、その他其の用途は非常に多いといえます。

大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章 副章(右下)・略綬(左下)
大勲位菊花大綬章
副章(右下)・略綬(左下)
桐花大綬章 副章(右下)・略綬(左下)
桐花大綬章
副章(右下)・略綬(左下)
旭日大綬章 副章(右下)・略綬(左下)
旭日大綬章
副章(右下)・略綬(左下)
旭日重光章 副章(右)・略綬(中)
旭日重光章
副章(右)・略綬(中)
旭日中綬章
旭日中綬章
旭日小綬章
旭日小綬章
旭日双光章
旭日双光章
旭日単光章
旭日単光章
瑞宝大綬章 副章(右下)・略綬(左下)
瑞宝大綬章
副章(右下)・略綬(左下)
瑞宝重光章 副章(右)・略綬(中)
瑞宝重光章
副章(右)・略綬(中)
瑞宝中綬章
瑞宝中綬章
瑞宝小綬章
瑞宝小綬章
瑞宝双光章
瑞宝双光章
瑞宝単光章
瑞宝単光章
文化勲章
文化勲章
宝冠大綬章 副章(右下)
宝冠大綬章
副章(右下)
宝冠牡丹章
宝冠牡丹章
宝冠白蝶章
宝冠白蝶章
宝冠藤花章
宝冠藤花章
宝冠杏葉章
宝冠杏葉章
宝冠波光章
宝冠波光章

東京七宝工業協同組合

東京七宝が東京都伝統工芸品に指定されて、いただいた賞状です。
東京七宝が東京都伝統工芸品に指定されて、いただいた賞状です。

東京七宝工業協同組合とは

東京七宝工業協同組合は昭和33年8月に、東京都で設立し現在に至っています。
各組合員は、お客様の注文による七宝の加工にあたっています。

東京都伝統工芸品とは、東京都内において100年以上伝統的な技術を伝承し、現在までもその技術を維持している団体を指定しています。つまり、昔からの技法、技術を無くさないためのものです。

尚、当組合に関しましては、当店坂森七宝工芸店が組合事務所を兼ねておりますので、何かございましたらお問い合わせください。